Doyu Special Interview 川口敦己さん

2019.7.18

 

 

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有限会社鉱脈社は、タウン情報誌の発行元として宮崎県内では絶大な認知度を誇るが、一方で宮崎を代表する出版社でもある。出版物は、歴史や地域経済等から小説や写真集まで多岐に渡るが、いずれも非常に「硬派」な書籍が多く、まさに宮崎を表現する正統派出版社としての地位を確立している。代表取締役の川口敦己氏は、宮崎県中小企業家同友会(以下、宮崎同友会または同友会)の創設メンバーとして、同会を誰よりも力強く牽引してきた。現在も役員研修会や支部例会等に精力的に登壇しているが、その場のテーマや限られた時間の中で、伝えられることには限界がある。特に自身の経営や、考えの背景にある思いをお聞きする機会はなかなかない。今回は、中小企業家同友会全国協議会(中同協)より、「会歴の長い会員の経営実践を中心に同友会への熱い思いを取材してほしい」との要望があったため、この機会を利用させていただき、川口氏に思う存分話を聞いた。

 

経営者ではなかった

 

鉱脈社は1972年に創業している。経営者が学び合う宮崎同友会を牽引してきた川口氏であるため、同会の設立(1992年2月)以前の約20年間も自社の経営にしっかり向き合ってきたのだろうと勝手に思い込み、それまでの経営について詳しく教えてほしいとお願いした。まず第一声は「大枠で言うと経営者ではなかった」であり、いきなり意外な答えに面食らった。

 

新聞記者をしていた川口氏は、奥様がデザインを得意としていたこともあり、印刷と出版を行う鉱脈社を設立。各団体組織の会報・ポスター・チラシ等の一般印刷を受注するようになり、それまで東京の出版社に仕事を出していた先輩の作家からの依頼も受けるようになった。社員も増え、それなりの苦労もあったが、売上は伸び、黒字だったため決算書を見る必要もなかった。川口氏も自身が好きなことをして会社が成り立っていたため、そのような状態を「経営者ではなかったと自覚している」と語った。

 

順調に会社が成長する中、1987年にタウン情報誌「月刊情報誌タウンみやざき」を創刊する。それまで経験してこなかった広告収入のために営業をするということ、そして未収金等が発生するといったことにも戸惑ったが、部数は急速に伸びていった。当時はまだ今のようにデジタル化されていない時代であり、社員は夜遅くまで作業に追われるようになった。この頃から、人の問題が起きてくるようになる。会社は黒字だが、人は続かない。経営課題に初めて直面したこの時、「もう経営を辞めようかと思っていた」と当時の心境を明かした。同友会におけるこれまでの川口氏を知っているだけに、この言葉にも正直衝撃を受けた。

 

同友会との出会い

 

1990年12月、鹿児島で九州内の経営者を対象にした経営フォーラムが開催されることになり、知人に誘われて参加したのが同友会との出会いだった。川口氏のことだから、きっと水を得た魚のように同友会の魅力に引き込まれたのだろうと思っていたが、予想に反し、その時も経営を辞めたいという気持ちのまま。参加していても「元気がなかった」と当時の自身の様子を振り返る。翌年1月には、中同協の国吉昌晴事務局長(当時)の支援もあり、宮崎にも同友会をつくろうという動きが生まれ、川口氏も誘われることになる。5月には設立準備会として初の例会も開催することになり、設立準備会のメンバーはわずか5人だったが、30名程が集まる例会になったらしい。それから毎月例会を開催したが、川口氏に転機が訪れたのがその年の9月に大分で行われた青年経営者全国交流会(青全交)でのグループ討論だった。まだほとんど同友会を理解していない川口氏の話をじっくり聞いてくれて、理解を示してくれたことに感動。帰ってきてその気持ちをレポートに綴り、中同協の国吉氏に送ると、それを「中小企業しんぶん」にも掲載してくれて、全国の会員に紹介されることになった。この一連の出来事に「この会は何か違う」とさらに感動したらしい。それからは翌年2月に予定されている設立総会に向け、「やると決めればやるぞ」という強い意志を持ち、自ら先頭を切るようになった。

 

もう辞めたい

 

このような話を聞いてると、最初から地域の課題に目を向け、強い志を持って同友会を作ってきたわけではなく、他の多くの会員と同様に、川口氏も経営に苦しみ、そして何かのきっかけがあって心に火が着いたことがわかる。「経営を辞めたい」と思うくらいに悩み、苦しんだからこそ、光を見た時の衝撃は大きく、心に灯った火は今も燃え続けている。

 

私も同友会に出会った時は、経営が最悪の状況だった。正直、川口氏と同様に「もう辞めたい」という気持ちと日々戦っていた。同友会に入り、「すぐに経営がよくなるぞ」と実感したわけでもなく、むしろ学べば学ぶ程、膿が出るようにさらに経営は悪化していった。それでも活動にのめり込み、全力で向き合った理由は、やはり「この会は何かが違う」と思えたことであり、経営はともかく、自分自身の成長だけは実感することができた。そして何より、業種や規模はもちろんのこと、考えや生き方が全く違う「仲間」がいる場に身を置くことの大切さを感じていた。

 

宮崎同友会の誕生

 

有志5人で動き出した宮崎同友会の設立準備会は、1992年2月22日、123名の会員で設立総会を迎えることになり、総会記念講演は「人が育つ企業づくり」と題して当時中同協幹事長の赤石義博氏にお話しいただき、期待と不安が交錯する宮崎同友会の方向性を指し示していただいた。後に中同協の会長、相談役、顧問を歴任する赤石氏との出会いもこの時だった。

 

総会の後、経営指針づくりのための勉強会を初めて行った経験も話してくれた。中同協から専任講師を呼び、受講生はたったの三人で、一泊二日の合宿を行ったらしい。その時に使っていた宿泊施設には消灯時間があったらしく、深夜に照明が消えた後は廊下に出て、「このままじゃ終わらないぞ」と焦りながら勉強を続けたことを楽しそうに話してくれた。現在でも開催されている「経営指針をつくる会」は、丸一日の講座が計8回というなかなかハードなカリキュラムだが、内2講は一泊二日の講座が含まれる。わざわざ市内に宿泊してまで行う意味はあるんだろうか、大人になってまで合宿なんて効果があるんだろうか、等と疑問に感じていた部分もあるが、意味や意義を問うことよりも、その楽しい思い出が、学び続ける原動力にもなっていることを体験すると実感する。おそらく、川口氏の楽しかった経験が、今にも受け継がれているのだろうと私は妙に納得した。

 

勉強会で経営理念、そして経営方針や計画を含む経営指針を作った後は、自社で初めて発表会を開催した。経営指針の発表の後、社員に感想文を書くことを頼んだが、当時の鉱脈社は職人気質が高い職場であり、中学を卒業してすぐに入社してきた社員や昔ながらの職人が多く、書いてくれるか心配だったらしい。しかし、その心配を他所に、社員たちは経営指針に感動し、皆が30分間一言も話さず、感想文を書いてくれた。「鉛筆で書くとコツコツと音がするんだよ。それが部屋に響き渡るんだよ。感動したなあ」と、川口氏はその時の様子を目を細めて嬉しそうに語ってくれた。その当時(1992年)、まだ今ほど経営理念、経営指針という言葉は聞き慣れない時代であったはずだ。にもかかわらず、社員が感動して喜んでくれたのはなぜだろうか。おそらくだが、その仕事が好きで入社してきた社員にとって、きつく厳しい業務の実態に直面し、支えとなる社長は「もう辞めたい」と心の底で思っている中、目指す場所を失った社員たちは、耐えて待っていてくれたのではないかと思う。そこに残っていた社員たちは、ようやく社長が「ここを共に目指していこう」と示してくれたことを、素直に喜んでくれたのではないか。

 

経営者の責任

 

私も似たような経験をしたことがある。インターネットの普及と共に仕事が急激に増え、社員も一気に増えた2000年頃、まだ同友会に入会してなかった私は、理念と計画を社内で発表した。今その時のことを振り返れば、それはただ「社員をどう動かすか」という目的のための手段に過ぎなかった。その時、社員に言われた言葉は今でも忘れることができない。「社長、綺麗事はいいですから、何をすればいいかだけ言ってください」。この言葉を聞いた私は、ますます「どう使うか、どう操るか」と考えるようになった。それから歳月が流れ、経営がとことん悪化した2009年に同友会に入会。これまでの経営、自身の経営姿勢が根底から間違っていたことに気づき、それまでの形だけの経営理念、経営計画を破棄。間違っていたとはいえ方向性があったのに、その方向性さえ見失った会社はさらに迷走し、悪化の一途を辿ることになった。2014年に経営理念をつくったものの、その深い意味(その先にあるビジョン)は社内で特に語らなかった。2016年頃、それでも会社に残ってくれていた社員(当時23歳の女性社員)に夢を語った時、彼女は目を輝かせて「もっと社長の考えを聞かせてください」と言ってくれた。経営者としての責任を放棄していたことを痛い程感じた瞬間だった。社員は、待ってくれていたのだ。

 

同友会では経営指針をつくることを強く推奨する。そして、「経営指針をつくる会」であったり「経営指針成文化委員会」であったり名称は様々だが、各地の同友会において高いレベルの経営指針をつくることを目指す。的確な外部環境分析、価値創造の視点や事業ドメインの的確な設定、そこに紐づく精度の高い事業計画。どれも大切であり、経営者自身の力強い論拠になる学びだが、忘れてはいけないのが、その精度や成否以上に、指し示すことそのものの「経営者としての覚悟」がそこにあることではないか。川口氏が初めて経営指針を発表してから27年が経過するが、今その時の計画の精度を問われるのか。経営者が自身の責任を自覚し、「指し示した覚悟」に、社員は感動してくれたのではないか。私はそう感じながら話を聞いた。

 

経営指針づくりのための勉強会の後は、中同協が発表している「中小企業における労使関係の見解(同友会では略して労使見解と呼ぶ」を学ぶための「労使見解を学ぶ会」を始めたことを話してくれた。労使見解の第1章の見出しは「経営者の責任」。川口氏はこの言葉に触れて、またもや衝撃を受け、「社長を辞めようと思っていたが、腹を決めた」と語ってくれた。それまで経営に関する本は読んだことがなかったが(それも驚いたが…)、労使見解に触れたことをきっかけに、経営に関する本もたくさん読んだとのことだった。

 

活動から運動へ

 

今期の宮崎同友会の活動方針の中には、「活動から運動へ」という言葉がある。今年4月に行われた役員研修会においても重要なテーマとなっていた。会員一人ひとりが自身や自社の成長のために学ぶ大切さに気づき、さらに役員等を担って自ら学びの場づくりへと進み、学びを深めていく。ここまでは多くの会員が気づき、実践しているが、宮崎同友会においては「その段階で止まっている」会員が多いことが近年の課題となっていることが背景にある。経営者としての自身が成長し、自社もまた改善、成長していくことがもちろん大切だが、同友会は単なる「経営塾」ではなく、そのようによい経営者を増やし、よい会社をつくり、よい経営環境にしていくことが目的であり、つまり社会運動である。過去10年間、宮崎同友会が会勢を伸ばせていないことも、この会員一人ひとりの意識に起因すると言っても過言ではない。

 

しかし、経営に悩み、学ばなければならないと感じて同友会に入会する人の多くは、まず第一には自身の学びから入るのも当然である。知ったり気づいたりすることを繰り返し、自身の成長を実感し、さらには自社の経営も改善した後に、そのような同友会の良さをもっと知ってほしいと考え、運動へと繋がっていくのが自然だ。

 

川口氏のこれまでの話を聞くと、同友会に触れた時は「もう辞めたい」とまで思っていた時期であり、様々な出来事を通して同友会の魅力を感じ、宮崎同友会の設立まで非常に短い期間で走り抜けたことがわかった。では、川口氏が「活動から運動へ」と変わったのはどのようなタイミングなのだろうか。その答えも意外であり、非常に納得できるものだった。

 

「僕は最初から同友会の自主、民主、連帯に惚れ込んだんだよ」そう切り出した川口氏は、そのベースに市民社会論があると説明した。市民社会が健全につくられなければいけないという考えが根底にあり、同友会の自主、民主、連帯の精神は、まさに市民社会の基本。民主主義という意味においても基本であり、大事にしたい。「経営者感覚というよりは、僕はそっちから入ったんだ」と教えてくれた。つまり、経営課題や経営者としての自身の成長という目的ではなく、自身の思想が、同友会の理念に合致したことが起点となったわけだ。

 

川口氏が静岡県の田舎から宮崎に移り住んだのが1968年。高度経済成長期の終盤であったが、集団就職により地方は過疎化が急速に進んだ時代でもある。1944年生まれの川口氏は、農村や漁村が崩壊していくその時代への問題意識を強く持つようになった。また、生まれ育った静岡の田舎に帰ると、高齢化して衰退が進む様子を目の当たりにして、今でも責任を感じるという。川口氏の兄は、そのことにいち早く気づき、田舎に残り地域づくりの活動に取り組んだが、道半ばで亡くなった。自分はその田舎を飛び出してしまったことへの責任を感じると共に、日本の地方を支えるために「中小企業がもっとしっかりしていれば」という思いが強くなったそうだ。

 

当時の一部の大企業も、地方が衰退することに問題意識を持ち、会社や工場を地方に作り、雇用を生んだ。しかし、1985年のプラザ合意をきっかけに円高が進むと、賃金の安い海外へと工場を移転する企業が増え、日本列島は至る所に空洞化現象が起きることになった。これを中同協元会長の赤石氏は、山の木々が伐採され赤土が見えている禿山に例え「赤ハゲ論」と呼び、同友会運動はこの赤ハゲ部分に一本ずつ木を植えていく「緑化事業」であり、中小企業に課せられた社会的、歴史的使命であると訴えている(Doyu Activity Report File No. 020 参照)。

 

赤石義博氏との出会い

 

改めて紹介すると、赤石義博氏は1962年に日本中小企業家同友会(現東京中小企業家同友会)に入会し、1985年から2014年まで中同協の幹事長、会長、相談役幹事、顧問を歴任した人物であり、まさに同友会の歴史と共に歩み、事例報告や基調講演は千回を超える。宮崎との縁も深く、前述したように1992年の設立総会の記念講演から始まり、支部設立総会、役員研修会、経営フォーラム、経営指針をつくる会等々何度も足を運んでいただいた。何より、著書の多くはなぜか宮崎の出版社、鉱脈社から発刊されている。その経緯についても聞いてみた。

 

最初のきっかけは、1994年に発刊された『変革の時代と人間尊重の経営 「21世紀型企業」その理念と展望』だったという。中同協相談役の田山謙道氏、中同協会長の田村寿雄氏、中同協事務局長の国吉昌晴氏、そして中同協幹事長の赤石氏(いずれも当時の役職)という錚々たるメンバーをそれぞれ宮崎同友会の例会や講座の講師として呼び、その内容をまとめたものに、中同協副会長(当時)の故山田昭男氏(未来工業)の話も加え、一冊の本にした。当時は中同協から書籍が発行されてはおらず、「宮崎同友会編」として発刊された同書が全国の同友会会員に読まれ、高い評価を得ることになった。これを機に、川口氏から赤石氏に書籍としてまとめることを提案し、以降の著書へと続くことになった。赤石氏の最初の著書「人間尊重の経営」の副題「中小企業が切りひらく健全な市民社会への展望」に、川口氏の思想が色濃く出ていることは言うまでもない。

 

「市民社会が健全につくられなければいけない」という考えが根底にある川口氏は、社会が成り立つために大切なものが「教育」であると考えていた。もう一つ大切なもの、それが「中小企業」であるということを、赤石氏に学んだと川口氏は語る。このままでは地域は崩壊する。大企業には出来ないことであり、中小企業が元気にならなくてはならない。

 

ここまで聞いていると、いろいろと結びついてきた。そして聞けば聞くほど、自社の経営課題というよりは、自身の思想や社会への問題意識が、同友会運動への源泉になったように思える。そのことを川口氏に確認すると、「いや、会社の経営をなんとかしたいという思いもあるよ。あるけど、そこが赤石さんに学ぶべきこととして弱かった部分もあるんだよね」と顔をしかめた。

 

生産条件と生存条件

 

「最初は社会をどうするかという視点で(同友会に)入っていったんだけど、会社が苦しくなれば平気で生産条件に入ってた」と、川口氏は少し悔やむような口調で話を続ける。「生産条件」とは、簡単に説明すると「儲かったら社員の待遇を良くする/会社に利益が出たら社員は幸せになる」という考えのことを指し、一方で「生存条件」とは「社員の待遇を改善し、労使の信頼関係をつくることで会社は生存できる/社員の幸せを第一に考えることで結果として会社は成長する」という考え方だ。生産条件ではなく、生存条件の追求こそが、真の人間尊重経営の基盤である。鉱脈社は2004年頃、インターネットの本格的な普及と共に業績が悪化。適切な手を打つことができず、この時は「生存条件」の考え方でもなく、「仕方がない」と考えていたそうだ。

 

このことは、昨年8月に開催された宮崎北・宮崎南支部8月合同例会の経営体験報告において「私自身の経営者としての姿勢こそが『鉱脈社の失われた20年』の元凶だった」と語っている。2013年(つい最近のことで驚いたが)、経営の立て直しを決意すると共に、その時に自問した結果導いた考えが、「我が社の失われた20年は、地域(宮崎)の、そして宮崎同友会の停滞の軌跡とも重なるのではないか。」というものだ。「本気でやりなおそう」と思った川口氏は、自社の経営の立て直しと完全にリンクさせる形で宮崎同友会の立て直しも考えた。これが2015年に宮崎同友会に設置した「ビジョンづくりプロジェクト委員会」の発足、そして2018年の「宮崎同友会 Vision 30th – 豊かな未来をひらく 中小企業は地域のインフラ」の発刊に繋がっていく。まさに「同友会運動と自社経営は不離一体」を体現している。そしてこの事実は、私にとっても本当に衝撃的だった。川口氏は自社の課題は既に解決済みであり、宮崎同友会の相談役として常に同友会のことばかりを考えているのではないか(適切な表現なのか疑問だが)という印象をずっと持っていたからだ。川口氏は、同友会の設立から今に至るまで、いやむしろ今こそ、自社の経営に向き合い、それを同友会運動へと完全に融合させている。

 

ここで私は川口氏に問題提起をした。「生産条件と生存条件」の考え方について、宮崎同友会では度々解説されることがあり、ほとんどの会員が耳にしている言葉でもある。真の人間尊重経営のために、社員の幸せを第一に考えることが大切であることは理解できたとしても、それをどのように実現していくかという議論には進んではいないのではないか。理解することだけで満足してしまってないか。理解するけど厳しい現実があるので、結局は「仕方ない」になってはいないか。「生存条件」を実践するためには、経営者自身の覚悟や力量もあるだろうが、現実的に自社の財力や資源だけでは厳しい状況があり、それが経営指針の成文化や労使関係、ひいては協力会社や金融機関との関係構築等の具体的な実践へと繋がっていかなければならない(と私は考えている)。川口氏には、より実践的な例会づくり等を通して、さらに学びを深めていくことが大切であることを助言いただいた。

 

先を見据えた同友会づくり

 

現在の宮崎同友会においてバイブル的な存在となりつつある「Vision 30th」だが、これは2018年の発刊から遡ること3年前、川口氏の呼びかけによって立ち上がった「ビジョンづくりプロジェクト委員会」によって作り上げられた。Vision 30thに留まらず、宮崎同友会の活動方針、委員会活動にも色濃く川口氏の考えが反映されている。この現状についての考えや、これが川口氏の戦略的な結果でもあるのかを率直に尋ねてみた。

 

「何でも最初に呼びかける時には全体像を描けているわけではない。試行錯誤の中でやっているが、結果的に戦略的に見えるようにはやっている」というのが川口氏の答えだ。そして「今の人たち(会員)は運動をつくっていこうと思っていない」ということを問題視すると共に、「赤石氏は10年先を見ていたが、僕もまだまだ足らない」と自問するように続けた。確かに「同友会づくり」という言葉は支部の活動方針等でも多用されるが、10年先を見据えているだろうか。自社の経営の10年先、少なくとも5年先は見据えないと経営の計画は立てられるはずもない。川口氏は宮崎同友会の10年先までは見ることがまだできていないと言うが、2~3年先すら見ていない役員が、川口氏と議論を交わすことさえできないのも頷ける。宮崎同友会は、幹部(役員)が育たず、なかなか社長が退任できない会社に似ているのかもしれない。

 

場づくり

 

同友会づくりの中において、川口氏が問題意識を持つこと、そして自身がこれから取り組むべきことは何であるかについて聞いてみた。川口氏がここ2~3年考えているのは「場づくり」が出来ない経営者が多いということ。「それだけは教えていなかったなあ」と困ったような表情を浮かべた。これは今年4月の役員研修会の時にも川口氏が訴えたことだ(Doyu Activity Report File No. 008 参照)。同友会はあらゆる場を学びに変える組織であり、それこそが他団体にはなかなか見られない魅力でもある。例会に参加して学ぶのは当然だが、何ヶ月も前からその例会という場をつくるため、多くの人が関わりを持ち、議論して学び合う。経験した人の多くが、例会に参加するよりも報告者になることや座長を務めることが、何倍も学びに繋がるということを体験する。例会では知識を与える講師ではなく、経営体験を飾らずに話す報告者の話を聞き、必ずグループ討論をするというスタイルも、受動的ではなく能動的に学ぶという考えを徹底して実践している。しかし、幹事会や理事会といった「場」については、その考えがどれほど生かされているだろうか。川口氏は「理事会が単なる決議の場であれば、30分で終わる」と言う。役員研修会の時の川口氏の言葉を借りると、「支え、促す活動こそが宮崎同友会の本質」であり、幹事会や理事会は単なる決議の場ではなく、議論を通して学び、成長し合える場であることが同友会として必要であり、その「場づくり」ができる会員が育つことが会の成長にも不可欠である。また、これは自社の経営においても全く同様であり、社員がいきいきと一つひとつの場から学び合える環境づくりが、経営者としての責任だ。

 

宮崎同友会の展望

 

最後に、これからの宮崎同友会について語ってもらった。「まずは経営者団体として、しっかり意見が言える力量を持たないといけない」と川口氏は語気を強める。やはり、直視せざるを得ない宮崎同友会の最大の課題だ。中同協が50周年を迎えるにあたり全国5万人会勢を目指す中、なかなか宮崎同友会は成果を出せていない。そして、この低迷は10年続いているという厳しい現実がある。「同友会で絶対に学ぶべき経営者は宮崎にまだいる。その経営者が学べる同友会にしていかなければならない」そう述べた川口氏に、私は「していこうとは言わないんですね」と答えた。それが今の川口氏の同友会に向き合う姿勢であり、私たちそれぞれに自問を促しているのだと解釈した。

 

編集後記

 

冒頭でも書いたように、今回は中同協の執筆依頼を理由にして、普段から感じてることや個人的な興味も含め、遠慮なく質問をぶつけていった。内心苛々するような質問も多かったのではないかと多少の心配もしたが、「まあ、かわいい後輩にいろいろ聞かれて嬉しいはずだ」と好き勝手に思い込むことにした。寛大な心の持ち主の川口氏は、終始笑顔で対応してくれた(笑)。それはともかく、文中に何度も書いたが、意外な事実に驚くことが多かった話だった。同友会に触れる前の経営、設立に向けて動いた思想やその背景、そして何より「同友会運動と自社経営は不離一体」をこれほどまでに体現していること。これだけ川口氏に触れてきて、普段から同友会での学びの深層を追求しようと取り組んできたのに、まだまだ足りていないことを実感し、登るべき山がまだまだ険しく、登りがいがありそうで楽しくも感じるような時間だった。そろそろ七合目くらいかなと思っていたが、実はまだ一合目くらいだったかな、という感覚だ。いや、そんな綺麗な言葉ではなく、もっと的確な表現をするならば「クリアしかけていたスーパーマリオブラザーズのラスボスは、思った以上に強そうだった」といった感じなのかもしれない(笑)

 

ともかく、この「場」も素晴らしく学びと気づきに出会えた。この機会をいただけた中同協と宮崎同友会の事務局、そしてどんな質問にも丁寧に答えていただいた川口氏に感謝したい。

 

 

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文・構成・撮影:

竹原 英男

TNAソリューションデザイン株式会社 代表取締役

宮崎北支部・理事・県増強本部長・組織強化連絡会リーダー

産学官民連携部会MANGO会長(兼担当理事)

広報委員会担当理事・青年部設立準備会担当理事

 

本資料は同友会の会員がゲストや非会員を訪問したり、入会や例会参加をお誘いする際に活用していただくために試験的に増強本部が発行しています。PDFファイルをダウンロードできますので、印刷する等としてご活用ください。